永田さんの遺稿が本となるそうです。
これまで永田さんと歩んできた流れを語ってきました。
最後の方は中村仁史が中心になってまとめられた「成約時代の摂理的同時性の時代」(成約の同時性)をめぐっての論争が起こり、その論文の在り方に反対する署名運動を永田さんが広げていかれました。
その広がりはさまざまな論争を生むことになればと私ももちろん賛成しました。
王様は「それを研究資料として活用すれば良い。だからと言って特にこれは本当にすごいものというわけではない」と語られたとお聞きしています。
多大な労力を傾けられた労作には違いありません。ですから「間違ったもの」ということでなく、それをいろんな角度で研究してしっかりみ言葉や摂理観を学んでほしいという王様のお気持ちだろうと思います。
公的に認められた「正しきもの」として一人歩きしていくことには反対なのであってこういう見解もあるということで自由な研究があればと私は思います。
永田さんの一連の活動を「成約の同時性」をまとめられた中村さんや何人かの方たちがよく用いられて永田さんがその中に選ばれず用いられなかったことの「愛の減少感」が動機で反対活動をしているのだという意見があるのですが、私の知る限りでは永田さんの中にそのような感情はほとんど感じられませんでした。
しかし、全くなかったのかどうかは私にもわかりません。
少なくとも私と長い会話の中でそのことについて一度もそのような感情を感じたことはありませんでした。
ですからそのようなご意見をお伺いするとえっ何を言っておられるのかなとキョトンとした感じでした。
人間ですからそのような感情がなかったのかどうかはわかりませんが、もしそういった感情がはっきりとしたものであれば私は感じ取っていたことでしょう。
ただそれが前面に出てないだけで表面に表れていないものの中にあったのかな、と思ってみても彼の溢れる感情や行動のエネルギーとなっていたは思えません。
むしろサンクチュアリのこれからを憂い、どうしたら今の課題を克服してもっとよい姿になっていくかその方向をもがきながら目指しておられたと実感しています。
だからこそ私も彼を応援し、同志という気持ちがあったのです。
ただ私と観点の違いを感じることはありました。
問題を指摘しそれと格闘しながら公に問うときとかには私は自分の堕落性や課題との戦いや葛藤を自覚してそれを、乗り越えようとまずもがきました。言うなればヤコブの天使との組み打ちの如く内的勝利感に至るまでその到達があってこそ問題解決に導かれると思っています。
そこに自分にとって真の善悪の戦いがあると考えてきました。
そういう観点から問題は決して人との戦いではないと彼に主張する時、彼はあまり同調してはくれませんでした。この違いを説明すれば長い説教のようになってしまうのでそれは今回の私の本意ではありません。
ここで明らかにしたいのは永田さんがご自身が本人が用いられなかったという「愛の減少感」が動機となってその論文に反対しているというご指摘はあたっていないのでないかと私は思います。
私たちは堕落人間(すなわち欠点多き人間)ですからそれに焦点を当てて見がちですが、本心(良い点)をきちんと見ることも大切だと思います。
永田さんはポジティブな明るい前向きな方でした。
その素晴らしい面を見てその行動も理解して差し上げる観点は大切だと思っています。
誤解を受けたまま旅立たれたとすれば、可哀想でもありまた残念なことです。
永田さんがもっとも最後に力を入れておられた著作が本にされるとお聞きしております。
それを心待ちとしながらこの一文を終えたいと思います。