「戦友」から便りをいただきました。
永田さんの戦友という方からご連絡をいただきました。
私は同志という気持ちでしたが、まあ言ってみれば“戦友”という感じもあったかもしれません。
しかし、その言葉は私にとって胸が疼きます。
彼との思い出に感傷的になることはあまりないのですが、やはり可哀相な気持ちになります。
彼を励ます時、つまり組織の内部にいて改革の先頭に立たしめてしまったとも思えるのです。
それはもちろん彼の願いであり、彼の宿命的な使命感であったと思います。
感情的に流れすぎるところがあり議論しあって激しい議論となって次の連絡がつしづらく感じることもありました。
それでも彼は何事もなかったように楽しく電話に出てくれました。
ふと思い起こすと「骨は拾ってあげるから戦ってこい」という気持ちになったことがどっかであった記憶があります。
日本サンクでもし上手く行かずもうダメと思ったら、こっちにきたらいいよという気持ちだったように思うのですが、ただ何となくそんなこともあったように思うだけです。
こんなかたちで話しもできなくなるとは全く考えていませんでした。
彼はダイナミックな戦いぶりでした。しかしながらある面私から見るといろんな意味で危なかっしく見えていました。
できるできないもありますが、私と議論が噛み合わなかった点では私の話にもうちょっと耳を傾けてくれていたらなあと思います。
彼をある面生かし切れず神様にも申し訳ない気持ちになります。
私が何とか言うのもおこがましいのですが。
病気ならば仕方ないと思うしかないとですが、「戦友」からは銃弾に当たって戦死したように感じるとありました。
そうなのか?
霊的な戦争ならば勝つ方法は大切です。
神様とサタンの間の戦争で負けるわけにはいきません。
神側にはっきり立つとは自分自身に対してサタンと相対しない位置を守らなければなりません。
そのことは肝に銘じておきたいものです。
奮い立たせたいものです。